尾畠さん「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」活動の源泉は「歩く」こと

2022年09月09日 20:00更新

「いろんな人と出会って話をしてみたい」尾畠さんが語る歩きの旅の魅力

 

行方不明の男の子を救助したことをきっかけに「スーパーボランティア」として広く知られるようになった尾畠春夫さん(82・大分県日出町在住)。特集の前編では、100キロウォークに同行し常に挑戦を続ける尾畠さんの人生観に迫りました。

 (特集前編の記事はこちらから)

 

今回は尾畠さんの「歩くこと」そして「恩返し」への思いについてお伝えします。「歩くこと」にこだわる尾畠さんは100キロウォーク以外にも、実はこれまでに徒歩での日本縦断や本州一周などの挑戦を成し遂げてきました。全国各地を「歩いて」旅する理由について、尾畠さんはこのように話します。

 

 

――尾畠春夫さん

「歩く旅というのが一番人と話す機会も多いし、接する機会も多い。いろんな人と出会って話しをしてみたいなと思って」

 

 

 

 

 

66歳で歩いて日本縦断 東日本大震災では「旅の恩人」の元に駆けつける

 

尾畠さんは2006年、当時66歳の時に徒歩での日本縦断に挑戦し、鹿児島県の佐多岬から北海道の宗谷岬までを歩ききりました。実は日本縦断の旅での出会いがその後の被災地支援へとつながっていったのです。

 

 

2011年3月11日、東日本大震災が起きました。東北で壊滅的な被害が出ていることを知った尾畠さん。このとき真っ先に連絡したのが、日本縦断の徒歩の旅で出会い、食事を提供してくれた宮城県南三陸町の「恩人」の夫婦でした。

 

 

――尾畠さん

「すぐに電話したが全然通じない。ここで考えてもしょうがないから、行動に移せと思って」

 

 

こうして南三陸町に向かった尾畠さんは現地に入ってすぐにお世話になった夫婦の無事を確認することができました。かろうじて夫婦の自宅には被害はありませんでしたが、町の惨状を目の当たりにした尾畠さんはそのまま現地に滞在し、災害ボランティア活動に従事しました。その後、大分と南三陸町を行き来し、支援はのべおよそ500日にもわたりました。

 

 

 

(撮影:林孝子さん) 

 

徒歩の旅で出会った「おやっさんとねえさん」に恩返し 西日本豪雨でも支援

 

また、徒歩の旅で出会った恩人のためにと支援に駆け付けたのは2018年。この年に起きた西日本豪雨では尾畠さんが広島県の被災地で災害ボランティア活動に汗を流しました。広島県に駆けつけた理由について、こう話していました。

 

 

――尾畠さん

「廿日市というところで、おやっさんとねえさんが凄くいいことをしてくれて、感動して。万分の一お返しができたらいいかなと思ってやらせてもらっています」

 

 

おやっさんとねえさん。尾畠さんが親しみを込めてそう呼んでいるのが広島県廿日市市に住む泊野義数さん・薫さん夫婦です。日本縦断の旅をしていた尾畠さんに食料を買う足しになればと1000円札を手渡しました。

 

 

尾畠さんの座右の銘は「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」。泊野さん夫婦の思いやりの心に感謝し、それ以来、手紙をやりとりするなどの交流を続けてきました。

 

 

――泊野薫さん

「私らもええ人に巡り合ったねと思った」

 

 

――泊野義数さん

「芯からのボランティアの人。その姿は変わらないもんね」

 

 

 

 

 

東京から大分までの1100キロを目指すも・・・ 歩きの旅は断念 

 

2019年、「スーパーボランティア」として脚光を浴びるようになった尾畠さんは東京の中学校での講演に招かれました。ボランティアについての考え方などを熱く語る中、ここである計画を明らかにしたのです。

 

 

――尾畠さん

「明日から歩いて大分に帰る。ザックを持って」

 

 

講演の翌日、尾畠さんはおよそ1100キロ先の大分県日出町の自宅を目指して、東京を出発しました。この旅では「世界の子供たちの幸福」を願って歩きました。

 

 

――尾畠さん

「子供に夢を与えるようなことをこのじいさんだけど、結果は必ず出るよっていうのを子供たちにお伝えしてみたいなと思って」

 

 

しかし、有名人となっていた尾畠さんを一目見ようと沿道には人が殺到。迷惑をかけてはいけないと、静岡県で旅を断念。家族の車で大分へと戻ってきました。

 

 

――尾畠さん

「総合的に見て、これは交通事故になるなと思ったから…悪いけど、自分が身を引けば、交通事故が無くてすむなと。自分の個人的な判断で今回の旅はここで、やめるって決めたんです」

 

 

失意の中、自宅に戻ってきた尾畠さんですが、この徒歩の旅で出会った人たちへの感謝を口にしました。

 

 

――尾畠さん

「皆さんから励ましの言葉を頂いたのに、途中でもうやめてこんなにしてね、逃げ帰ってきたみたいな状態になったけど。だけどね、受けた恩は絶対に忘れないから。必ず何かの形で、恩返しはさせてもらいたいなと思っています」

 

 

 

東京から大分を目指すも神奈川県座間市を経由 挑戦の裏には憧れの人

 

この東京から大分を目指した徒歩の旅。実は尾畠さんにとっては「長年の夢」でした。

 

 

――尾畠さん

「第二次世界大戦の時にはアーン少佐の仲間も先輩たちも犠牲になった方もおられると思うけど、それを踏み越えて施設のためにやろうという気持ちになってくれたことが私はものすごく感銘を受けたんですよ」

 

 

アーン少佐とは戦後、大分県別府市に駐留していたアメリカの軍人です。戦災孤児たちがいた施設(現在は児童養護施設となっている)にプレゼントを持っていくなどのボランティアをしていました。その後、アーン少佐は神奈川県の基地・キャンプ座間に移りますが、施設との親交は続き、施設の新しい建物の建設費用を集めようと、ある挑戦をします。

 

 

それはキャンプ座間から別府市の施設までを2週間以内で歩けるかどうかの賭け。失敗すれば、倍にして返すと同僚たちから賭け金を集めました。挑戦は見事に成功し、施設に善意が届けられました。このエピソードに感銘を受けた尾畠さんは自分もいつか同じ挑戦をしたいという夢をずっと抱いていました。尾畠さんが遠回りをしてでも座間市に立ち寄ったのはアーン少佐の足跡を少しでも感じたかったからだったのです。

 

 

――尾畠さん

「(施設には)今も夢を持ちながら頑張っている子供さんもたくさんおるからね。無事に到達して、おいちゃんがんばったよという姿を見てもらいたいなと思って」

 

 

挑戦は断念となりましたが、尾畠さんは子供たちと一緒に山登りをするなどの施設との交流を続けています。

 

 

 

 

その生き方に海外メディアも注目

 

毎年10月、尾畠さんは福岡県行橋市から別府市までのおよそ100キロを歩く挑戦「100キロウォーク」を行っています。2019年、80歳の誕生日にもこの挑戦を行っていましたが、尾畠さんを追いかけるテレビカメラのクルーの姿が・・・。密着取材をしていたのはドイツの公共放送でした。

 

 

――ARDドイツテレビ東京支局 渥美真理子プロデューサー

「高齢化社会で、少子化社会と言われているドイツと同じ日本。その中で、高齢で元気で活躍しています。そういう素晴らしい人を是非、ドイツで伝えたいと思って」

 

 

――尾畠さん

「海外(の人)が来ようが他の星の人が来ようが関係ない。(世界中の人が)支えあって生きたらいいのではないかと思うわ」

 

 

「人が人と出会い、支えあう」。そのことを大切にしてきた尾畠さんは「スーパーボランティア」と呼ばれ注目されるようになった今も、これまでと変わることのない歩みを続けます。

 

 

【尾畠さん特集 後編】

 

 

テレビ大分では尾畠さんの活動に長期間、密着した「続 復興へんろ道 82歳 スーパーボランティアと呼ばれて…」を9月10日(土)午前2時から放送します。(同番組はドキュメント九州としてFNS九州・沖縄各局で放送)

 

 

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白井 信幸記者

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