村山元首相の訃報に関係者から哀悼の意 社民党・福島党首「寂しい。大分の実家に行く度、頑張れ頑張れと」
17日に101歳で亡くなった村山富市元首相。
大分県出身者として初めての総理大臣として活躍したほか、その親しみやすいキャラクターで大分県民から愛されました。
これまでの功績などを振り返ります。
村山さんは1924年3月3日、漁師の家に11人兄弟の8番目の子どもとして誕生。
明治大学を卒業し大分県職員の労働組合で労働運動に取り組みました。
その後、大分市議会議員、県議会議員を経て1972年に衆議院議員に初当選。
日本社会党の委員長を務めていた時に自民党と新党さきがけの3党で連立政権を組みます。
そして1994年6月、第81代内閣総理大臣に就任しました。
◆村山元首相(当時)
「こういう場所で初めてご挨拶するものですから。 心臓のときめきを感じますけど もいまの政治を改革する。そのために私で役に立つならその信条に応えられなきゃいか ん。こういう気持ちで決意をしました」
在任中には歴史に残る様々な出来事が起こります。1995年1月には阪神淡路大震災が発生。
またこの年の3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件なども発生し対応に追われました。
そして戦後50年の節目に発表したのが村山談話です。
◆村山元首相(当時)
「植民地支配と侵略によって、多 くの国々、とりわけアジア諸国 の人々に対して多大の損害と苦 痛を与えました。疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、 心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
時の総理として初めて「侵略」や「お詫び」という言葉を使い、注目されました。
そして、村山さんといえばトレードマークは長い眉毛。愛称にちなんだ“トンちゃん”グッズも販売され話題になりました。
◆村山元首相(当時)
「最近ネクタイうーんと持っちょん(持っていると)言わるん」
総理になっても変わらないこの大分弁が飾らない人柄を表していました。
大分県からの初めての総理大臣誕生に地元も祝福ムードに包まれました。
里帰りした際は空港にも…そして家の前にも出迎える多くの人の姿がありました。
しかし、1996年の年明け早々突然、その一報がもたらされます。
◆村山元首相(当時)
「私は本日内閣総理大臣を辞任することを決意しました」
総理を辞任。在任期間は561日でした。
◆村山元首相(当時88歳)
「歩くの速いかい?僕は歩くの速いけんね」
2000年に政界を引退した後はTOSの番組にも気さくに出演し、豆腐の試食などをしてもらいました。
また、別の日のインタビューではこんな発言も。
◆村山元首相(当時86歳)
「まさか総理になるなんて思ったことはない。僕の人生を振り返ってみたらまさにめぐり合わせの人生だなと」
そして2024年、歴代の総理経験者として3人目となる 100歳の誕生日を迎えました。
◆次女 中原由利さん
「朝は6時半ぐらいに起きてちょっと身支度してからお散歩に行って、早口言葉を言ったり、それから昔の自分の挨拶文を出してきて読んだり、総理大臣のときも自分で自分の靴下を洗っていましたよ」
激動の時代を生きてきた村山さん。
100歳を迎えた際には「日本がどこまでも平和な国であり続けることを願っています」とコメントしていました。
多くの人たちに愛された村山さん。いつも平和の大切さを私たちに伝えてくれました。