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玖珠町にある「旧豊後森機関庫」。
今は公園になっており、この春もお子さんを連れてお出かけになった方もいらっしゃると思います。
そもそもここがどういう場所であったのか玖珠町観光協会が所有するたくさんの写真を使って、歴史を紐解いてみたいと思います。
豊後森駅の近くにある「旧豊後森機関庫」。
「機関庫」や「機関車」は子どもたちだけでなく大人もワクワクする場所です。
蒸気機関車の基地がなぜここにあって、ここでどんなことをしていたかご存知ですか?
昭和9年 久留米~大分つながる
久留米と大分を結ぶJR久大本線。
大分駅から線路が伸びてきて、豊後森駅が誕生したのは昭和4年(※1929年)のことです。
そして昭和9年の11月、日田-天ヶ瀬間が開業し、久留米と大分がつながりました。
駅の周辺は「国鉄の街に」
◆TOS小笠原キャスター
「ここに機関庫を誘致したかった最大の理由はやはり経済効果、人のにぎわいです。当時、豊後森駅周辺は大変なにぎわいだったそうです」
◆豊後森機関庫ミュージアム 河野孝文さん
「ここにですね国鉄の職員さんがですね、大体220から230人ぐらいの職員さんがおりました。今みたいに単身赴任ということはなかったもんですから。ご家族も一緒にですね、こっちの玖珠の方に来てですね」
「森駅の周辺はですね、もう本当国鉄の街みたいな感じでですね、栄えていたとこですね」
なぜ、ここに機関庫が?
そこでそもそもの話。なぜ、ここに機関庫が必要だったのでしょうか?
◆河野さん
「昭和9年といいますと、まだ蒸気機関車の時代です。久大本線、久留米-大分間ですが全長が約140キロぐらいです。ここの豊後森がちょうど中間地点に当たります。そこでですね、水と石炭の補給ということで、この地に選ばれたみたいですね」
それから、もうひとつ。
ここから大分方面にある蒸気機関車の最大の難敵の存在も機関庫が必要な理由でした。
◆河野さん
「水分峠がですね、かなりの難所でですね、ここでどうしてもやっぱりエネルギーを使うもんですから、そういう意味でもですね水を補給して、蒸気を起こしてですね、険しい峠を超えてたようですね」
「そうですね大体約30分ぐらいですね、水を入れる時間とそれと機関士さんとか、乗務員さんのですね、休憩も兼ねてですね、30分ぐらいはゆっくり止まってたみたいですね」
悲しい出来事も…
昭和20年8月4日には、この場所で悲しい出来事が起こりました。
◆河野さん
「第2次大戦のですね、もう終戦間際の8月に、米軍から機銃掃射を受けた跡なんですが、そのときにここの助役さんと、それから機関助手の方と、3名の方がですね、亡くなっております」
弾の痕は今も見ることができます。
蒸気機関車廃止 貴重な鉄道遺産は町のシンボルに
そして昭和45年9月、蒸気機関車廃止。豊後森機関庫は役目を終えました。
機関庫は、しばらく廃墟の状態でしたが2000年を過ぎた頃から、地域の皆さんの熱心な保存活動が行われ、整備が進みました。
近代化産業遺産や、文化財にもなりました。
貴重な鉄道遺産は町のシンボルになったのです。
久大本線がつながって豊後森駅は久留米と大分のちょうど真ん中あたりにあたる。
蒸気機関車の石炭と水を補給するのに最適な場所だった。
水分峠を越えるのにパワーのある機関車にここでチェンジする場合もあったとかで機関庫が必要だった。
公園に遊びに行ったときにちょっとそんな話をお子さんにしてあげてくださいね。