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竹田市の岡城のもとに広がる城下町は、ずっと町の姿が変わっていないところで、江戸時代の町の様子を想像しやすいところです。
私も竹田を歩いてきましたーー
城下町・竹田の歴史を展示
現在、竹田市歴史文化館で興味深い展示が行われています。
それが、「古地図にみる岡藩城下町」。
江戸時代からの竹田の町の様子がわかる古地図や古絵図を展示しています。これだけのものが一度に展示されたことは今までありませんでした。
ーー竹田市歴史文化館 佐藤晃洋 館長
「江戸時代の城下町竹田を描いた絵図はサイズが大きく、展示をすることがなかなかできませんでした。今回は江戸時代の城下町の移り変わりをご覧いただけるように、多くの絵図を展示させていただきました。一度にご覧いただける貴重な機会だと考えています」
竹田の城下町の大きな特徴は、道の姿や「町割り」が江戸時代とほとんど変わっていないこと。
町割りというのは、町の位置関係や範囲のことです。
さらに町の名前も江戸時代と全く変わっていないのです。
【安部家旧蔵岡藩城下町竹田 絵図】
こちらは、「安部家」で保存されていたもので、竹田の城下町が描かれている絵図の中では最も古いものです。道が縦横ほぼ直角に交差する碁盤の目のような町の姿は、今もほとんど変わっていません。
例えば・・・ここです。
「上町通りと横町通りが交差している四つ角」
ーーTOS小笠原正典キャスター
「絵図と全く同じところに来ました。町割が変わらない理由は?」
ーー竹田歴史文化館 櫟浦幸徳さん
「長い年月の間に、景観とかは変わってきている。 町割自体は変わってきていないんですね。その理由としては、大きな戦災を道筋が変わるほどの戦災を受けなかったということと、町割が変わってこなかったことで、町の中の、住民の方の、仲間意識とか、競争心みたいなものが、町割を残すようなことにつながっていったのかな…というような感じになりますね」
自分たちの町への愛が強い城下町の人たち。
町を守っていこうという熱い気持ちが、代々引き継がれていると櫟浦さんは言います。
先人たちの熱い思いで守られてきた町割り
こちらは城下町交流プラザがあるところ。
発掘調査と古い絵図からわかったことがあります。
2016年、ここから「石で作られた排水溝」が出てきました。
この排水溝が屋敷と屋敷の境目になっていたことが 絵図と比較してわかったんです。
町中には今もなお町の人の普段の暮らしがそこにある150年、200年を超える建物があちらこちらに。
こちらは、200年以上前に建てられた御客屋。
藩が運営する宿泊所で、地図作りで測量に来た伊能忠敬も宿泊しています。
今は「月鐘楼」という名前のカフェでお茶を飲みながら、江戸時代の雰囲気を味わうことができます。
ーー竹田歴史文化館 櫟浦幸徳さん
「竹田の城下町は、東西が400メートルぐらい、南北が300メートルぐらいの、限られた中に作られている城下町です。 その中に、江戸時代の初めの頃の、道筋が残っていて、その様子がわかりますし、あと150年から200年ぐらい前の建物が点々とではあるんですが、今の生活の中に残っているというのが、竹田のまちの大きな魅力かなと思います」
1594年 初代藩主・中川秀成(ひでしげ)が整備を始めた竹田の城下町。
そのころと道の姿や町の形が変わっていません。
歴史文化館で今展示されている絵図を「見て歩く」もよし、「歩いて見る」もよし。
江戸時代の姿をイメージしながら竹田のまちを歩いてみて下さい。
「古地図にみる岡城城下町」は2月12日まで。