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大分県宇佐市出身の作曲家・清瀬保二。
みんなが知ってる!…という人ではありませんが、日本の音楽界に大きな功績を残した人。皆さんの記憶の中に、その名前が刻まれたら嬉しいなと思い取材しました。
――豊の国宇佐市塾 平田崇英さん
「宇佐からですね。素晴らしい人いっぱい出てると思うんです。横綱双葉山、文学の世界である横光利一とか、水路で南一郎平…でもですね、清瀬さんに関してはですね、世界的に知られた作曲家で、そういう世界的な作曲家は宇佐から出てる、それは大変な誇りですね」
作曲家・清瀬保二。宇佐の四日市の出身です。旧制宇佐中学(宇佐高校)から松山高校(愛媛大学)に進み、その後上京して独学で作曲を学んでいきました。
清瀬保二は、その生涯で管弦楽や室内楽など500曲余りを残しました。
――宇佐市民図書館 松寿敬 館長
「日本人の作曲家の演奏するときに、一番世界で多く演奏されている現代の作曲家っていうと、武満徹さんっていう方の名前があると思うんですね。その武満徹さんが生前、自分の音楽の先生は清瀬保二さんだっていうふうに明言をされていたというエピソードを一つとってみても、清瀬保二さんがいかに世界的に実力のある作曲家だったかっていうことがわかるんじゃないかなというふうに思ってます」
その音楽性は違っても、昭和生まれの武満は明治生まれの清瀬に大きな影響を受けました。清瀬の葬儀の時には急遽帰国して裏方として動いていたそうです。
清瀬保二の孫で、現在、宇佐市院内にお住まいの香下英一さんは、清瀬の研究をなさっていて、その功績をこう語ります。
――香下英一さん
「そうですね。やっぱりまず一つは、自分の信じる道をずっと歩み続けたっちゅうこと。つまり、5音階を使って作曲をし続けたっていうことと、それから 一つの音楽団体をまとめて時代の流れにどう関わっていくか、これ相当真剣に考えて行った人だと思います」
清瀬は、戦前戦後の作曲家の組織を引っ張り、多彩な人材を育てる環境を作り出しました。
とりわけ戦時中は音楽家のまとめ役として、さまざまな軋轢の中で時代と対峙したと言います。
――香下英一さん
「日本の音楽団体が戦争に巻き込まれていくときに、どういうような関わり方をしたか、それからどういうふうに抵抗したかっていうの全部記録してあります。だからそういう意味で、非常に貴重な資料を残した人でもあります」
作曲家・清瀬保二は美しい音楽を求め続けると同時に伸びやかに歌うことができる校歌を30あまり作っています。中津北高校や宇佐小学校など大分県の学校の校歌も数多く作っています。
Q.清瀬さんは どんな人?
――香下英一さん
「とにかく話好きな人で話し始めたら大体3時間ぐらい止まらんような人で、いつまでも話をしている、そういう感じの人でした」
(※香下さんは大学時代 祖父・清瀬の家に下宿をしていました。)
戦後、例えばゴジラの曲で知られる伊福部昭さんなど、たくさんの音楽家が日本に出てきたのも清瀬さんの存在があったからだといいます。
日本の音楽の功労者が宇佐出身だったということを、これを機会に覚えて頂ければうれしいです。