兵士の“寄せ書き日の丸”遺族のもとへ「80年の時を経て生きた証が返ってきた」大分
2023年は滝廉太郎没後120年の節目の年。
「荒城の月」には2種類あるということを、皆さんご存知でしょうか?
あなたの口ずさむ「荒城の月」はどちらでしょうか?
2つの「荒城の月」
滝廉太郎。大分県の誇る偉大な音楽家です。
2つある「荒城の月」、さっそく聴き比べてみましょう。
今回は大分県出身、オペラや演奏会で活躍中のバリトン歌手・新見準平さんに全面協力をいただきました。
結論から言うと、2つ目ものが滝廉太郎が作曲した原曲。
最初のものが滝廉太郎が作曲したものを「山田耕筰が編曲」したものです。
もともと「荒城の月」は、中学唱歌の公募に廉太郎が応募して採用されたもの。
1901年、21歳ごろの作品です。
一方、山田耕筰の編曲は廉太郎がこの世を去ってから14年後の1917年に作られたもの。
どちらかというと、編曲の方がなじみ深い…という人が多いのではないでしょうか。
「原曲」と「編曲」 その違いは?
「原曲」と「編曲された」ものには、いくつかの違いがあります。廉太郎が作曲したものは元々はアカペラ・無伴奏の曲で、そこに山田耕筰はピアノの伴奏をつけました。
ほかにも、「調」やテンポの違いなどがありますが、最もわかりやすくて大きな違いに感じられるのは「はなのえん」の「え」の音の違いです。
廉太郎が「荒城の月」を作った1901年ごろは、日本の音楽教育の黎明期。
学校教育に西洋の音楽が持ち込まれて、およそ20年という頃です。
ーーバリトン歌手 新見準平さん
「滝廉太郎は荒城の月を作ることで、さまざまな挑戦をしたわけです。それまで日本になかった、固有の音階ではないものを用いたということですね」
それまでの日本の音楽というのは、「ヨナ抜き音階」のものでした。
ーーバリトン歌手 新見準平さん
「ざっくり言えば、雅楽の旋法にあたります。ドとドのオクターブの中で、4つ目、7つ目の音、ファとシの音を抜いたのがヨナ抜き音階です。ヨナ抜き音階をつかわずして、彼は人の心に訴えかける独創的なメロディを作り出した。ここがまさしく象徴的です」
日本人が安らぎを覚える音階「ヨナ抜き」から卒業し、一歩前へ踏み出すための挑戦だったのです。
ではなぜ、山田耕筰は編曲をしたのでしょうか?
この「荒城の月」を海外で演奏する機会のあった山田、外国人の聴衆が「日本らしさ」を感じられるようにアレンジした…などと言われています。
ーーバリトン歌手 新見準平さん
「そのオリジナル知っているということがこの作品のほんとの真髄というか、それに触れることだと思うので、大分県民なら(原曲を)知っておくべきですね!」
ちなみにJR豊後竹田駅で流れるのは、「原曲」でした!