戦後80年「残された時間は少ない」“語り部”続ける88歳の被爆者 戦争体験者の高齢化進む 大分

2025年04月09日 18:40更新

2025年は戦後80年の節目の年です。

 

戦争を体験した人の高齢化が進む中、長崎県で被爆し、その体験を語り継ぐ「語り部」として活動する男性が大分県宇佐市にいます。

 

「残された時間は少ない」と話す88歳の男性の思いを取材しました。

 

 

 

◆奥城和海さん

 

「人はみんなわめき、泣きながら 『助けて』とか『誰かー』とかいう声がして、人が走り回っていたという記憶がある」

 

 

こう話すのは、宇佐市に住む奥城和海さん88歳です。

 

80年前、8歳だった奥城さんは長崎県に住んでいて被爆しました。

 

 

 

 

 

1945年8月9日午前11時2分。

 

アメリカ軍によって長崎に投下された原子爆弾。

 

一瞬で多くの尊い命が奪われました。

 

 

 

 

 

その日は朝から空襲が無く穏やかな日だったと振り返る奥城さん。

 

具合が悪かった祖母の見舞いで母親と3歳の弟、1歳の妹と一緒に爆心地から3キロほどの場所にあるおじの家を訪れていました。

 

 

◆奥城和海さん

 

「私は外で水遊びをしていた。だから(原爆が)落ちた時は全てを見ている。白い飛行機から球がぶら下がってきて、 それを見ていたら瞬間的に炸裂した」

 

 

爆風で吹き飛ばされ、何が起きたのかさっぱり分からなかったと振り返ります。

 

 

◆奥城和海さん

 

「今まであんなに明るかった世界が 今にも夕立が来るような不気味な暗さに変わってしまった」

 

 

 

 

 

造船所で働いていた父・功さんと会えたのは、原爆投下から4日後の夜中だったそうです。

 

 

◆奥城和海さん

 

「玄関ががらーと開いて、『みんな無事か、元気か』と言って帰ってきた。お父さんだーと飛び起きて無事を喜び合った」

 

 

奥城さんの父親が被爆体験をつづった手記が残っています。

 

手記を見つけたのは父親が亡くなった後、今から約30年前のことでした。

 

そこには、原子爆弾の恐ろしさや悲惨さが書かれています。さらに「二度と悲惨な戦争が繰り返されることのないよう」という平和を願う言葉も。

 

 

 

 

 

原子爆弾が投下された翌年、母親の古里、宇佐市に一家で移住した奥城さんは、その後、小学校の教師になりました。

 

退職後、70歳くらいから始めたのが被爆体験を語り継ぐ「語り部」の活動です。

 

 

◆奥城和海さん(2012年・小学校での平和授業)

 

「(当時は)人の世とは思えない地獄が起こっている。もうこれ以上被爆者を作らない で欲しいという悲痛な叫びの中で私たちは生きている」

 

 

これまでに130回以上、小学校の平和授業などで、自身の体験を語ってきましたが、最近はそうした依頼も減ってきているといいます。

 

 

◆奥城和海さん

 

「残された時間は少ない。いなくなる、もうまもなく。今 生きている存在貴重な一人の存在を今出さねばいけない。それを伝えるのが我々の使命。 被爆をした人の生の声はもう聞けなくなる」

 

 

原子爆弾の投下、そして終戦から80年。

 

長い年月が流れ、戦争を体験した人の生の声を聞く機会は少なくなっています。

 

戦争を未来にどう語り継いでいくのか

 

私たちはその声をしっかりと受け止めていかなければなりません。

 

 

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