【昭和100年企画】大分県の昭和にタイムスリップしよう~中央通り編~

2025年02月21日 20:00更新

■大分市の中心部「中央通り」案内人は

 

大分駅から北側へ伸びる、現在の中央通り。

 

 

トキハやOPAなど商業施設が並び、幅広い世代からイベントなどで利用され、

 

大分市の中心部として機能している。

 

 

この場所を「昭和世代代表」として案内してくれるのは、

 

 

大分都心まちづくり委員会 代表幹事 児玉けんめいさん。

 

 

「僕は大分県が急成長していくところを見てきた」と話す。

 

 

 

 

■大分市のシンボル「赤レンガ館」

 

昭和から中央通りの発展を間近で見てきた児玉さんと、中央通りの歴史を振り返ってみよう。

 

 

まず、この企画で最初に挨拶するべき相手。

 

大分県の発展をずっと見てきた建物。

 

 

それは、大正2年に完成した「赤レンガ館」である。

 

昭和20年の空襲でも焼け残り、今や大分市のシンボルともいえる建物だ。

 

 

その奥には、大分でも珍しいモダンなカフェとして

 

大人の社交場もあったのだそう。

 

 

 

 

 

 

 

■戦後の復興期に現れたモノ

 

続いては、戦後の復興期にタイムスリップ。

 

 

戦災で焼け野原となった大分市中心部に新しい道路ができ、

 

賑わいが戻ってきた昭和30年頃。

 

 

この辺りは、夜な夜な出現するあるモノで賑わっていた・・・

 

 

 

■サラリーマンのオアシス「屋台」

 

◆児玉けんめいさん

 

「昔、この辺りに屋台がずっと並んでいたんです。

 

自分が幼稚園のころ、今の祝祭の広場のあたりから屋台がずらりと並んでいたのを覚えています」

 

 

昭和20年の終戦から昭和40年頃まで、中央通り沿いにはたくさんの屋台が並んでいた。

 

 

ここは、仕事終わりの人々を癒すオアシスだったのだ。

 

 

しかし、昭和41年に開催された大分国体の際、

 

景観を損なうなどの理由で立ち退きを余儀なくされてしまった。

 

 

 

 

 

 

■屋台をしていた店が、未だ残っていた

 

中央通りで屋台をしていた店が、なんとまだ残っていたということで

 

大分市城崎町へ。

 

 

◆大分市城崎町 平和 二代目 米野(めの)みよ子さん

 

「昭和27年に母(百合子さん)が始めて、それから続けています。

 

母によれば、児玉さんのお父様が常連だったそうです」

 

 

児玉さんも驚きの事実だったそう。

 

 

当時の屋台の営業はどのようなものだったのか。

 

 

実は、店から中央通りまで毎日屋台を運んでいたわけではなく、

 

現在のパチンコ店あたりに「屋台置き場」があり、

 

そこから毎晩中央通りに屋台を運んでいたんだとか。

 

屋台を運んでくれたり、七輪に火をつけてくれる学生バイトに手伝ってもらっていたそう。

 

 

当時の写真を見てみると、町の賑わっている声が聞こえてきそうだ。

 

 

 

 

■賑わいは渋谷級?「スクランブル交差点」「トキハ」

 

続いては、トキハ前にあるスクランブル交差点に注目してみる。

 

 

◆児玉けんめいさん

 

「渋谷のスクランブル交差点より賑やかだったと思います。

 

女性たちは買い物に着物で来ていました」

 

 

この頃、トキハは大分バス本社に隣接。

 

バスターミナルを備えた都市型デパートとして賑わっていた。

 

 

そして、昭和50年に大規模増築工事が完成し、当時としては西日本最大規模の百貨店となる。

 

 

児玉さんは、

 

「学校帰りに手品を披露するおじさんに会いに行くのが日課だった」

 

「大分に西日本最大のデパートがあるんだと盛り上がった」と当時を懐かしんだ。

 

 

また、昭和47年に廃止になった「路面電車」。

 

児玉さんによるおもしろいトリビアがあった。

 

 

◆児玉さん

 

「廃止になった路面電車の運転手の転職先は・・・ホーバクラフトの操縦士さんだったんです」

 

 

当時、路面電車とホーバークラフトは同じ会社が経営しており、社内での配置換えがあったという。

 

 

輝く場所を変えて、人々の旅路を支えてきたということになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

■パルコ誕生「大型店出店ラッシュ期」

 

最後は、大型店出店ラッシュ期にタイムスリップ。

 

 

イベントなどが行われる「祝祭の広場」の前もたいへんな盛り上がりを見せたという。

 

 

児玉さんも「とても華やかで、それまでそこに西友があったことをみんな忘れてしまった」と語るパルコが誕生したのは、昭和52年。

 

 

パルコといえば、当時の大分県を象徴する建物のひとつで、

 

流行の最先端が詰まった場所だった。

 

 

どんどん人口が増えて、デパートも増えていった中、

 

昭和40年代後半~50年代は、日本一の商業激戦区とも言われていたという。

 

 

そして、平成23年にパルコは惜しまれつつ閉店。

 

お客様が分散したというのが大きかったのではという。

 

 

実は、パルコの地下1階に、児玉さんはお店を出店していた経験もあるそう。

 

児玉さんの大分愛が伺える。

 

 

 

 

 

 

 

■中央通りの100年

 

長い間、大分県の中心部として多くの人を受け入れ、県民の生活を支えてきた中央通り。

 

移り変わりはあれど、現在も大分の中心としてその存在を確固たるものとしている。

 

 

◆児玉けんめいさん

 

「今は、県外の方からも中央通りは若者が多いですねと言ってもらえます。これからは、令和の楽しさを作っていけたらと思います」

 

 

昭和、平成、令和のその先へ

 

大分市中央通りの100年はキラキラと輝き続ける。

 

 

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